|
| 0094 |
| 田川の堰(たがわのせき)tagawa-dam. |
---|---|
| 千葉県木更津市田川 |
1地形図 | 上総横田4992 |
分 類 | 溜池(灌漑用) |
別 称 | なし |
|
JR久留里線小櫃(おびつ)駅より、北西へ約3km。 館山自動車道の、木更津北ICを出て(T字路・信号を右折)南東進。 県道君津・平川線を道なりに南進し、袖ヶ浦市から木更津市に入る。 矢那川ダムを越え、丘を下った信号を左折・南東進し、県道木更津・ 末吉線を進む。木更津市から君津市に入り、1500m先(下り坂の 右カ−ブ)で、左ト(信号なし・戸崎バス停)を左に入る。 小さな尾根を越え、道(県道長浦・上総線)を北上。 小川を渡って、君津市から木更津市に入り、600m先(民家手前の 舗装農道・田川バス停20m手前)を左折西進、正面が堰である。 |
---|---|
| 上の堰 約3000m2 下の堰 約1200m2 |
| 3.0m |
| 不詳 |
| 不詳 |
| 1883(明治16)年以降の近代 |
生息確認年月 | 2001(平成13)年06月10日 2002(平成14)年09月18日 |
|
貸しボート・トイレ・売店・駐車場なし。 |
Special Feature | とても小さな、ため池。 |
|
東西に伸びる谷津の入口にあって、上流と下流の2ケ所に分かれる。 上の堰の堰堤は南北に約60m、水面は西にある。インレット(流入部)は南西端。 水面には堰堤と北西の農道から自由にアクセスできる。南岸は竹薮で立ち入れない。 水面はオープン。ボトムは泥。水色はややマッディー。 水面下中央には藻(nitella frexiis)が繁茂している。 BASSは見えるが、ここでは最大でも40cm級であろう。 10cm〜13cmの仔魚もいて、繁殖していることが解かる。 護岸の古い杭、蛇籠、葦、倒れた竹、などのストラクチャーがある。 |
|
一方、下の堰の堰堤は南北に約40m、水面は西である。 インレット(流入部)は西端の上の堰になる。 水面には、インレットとアウトレットからアクセスできる。 水面はオープン。ボトムは泥。水色はややマッディー。北西には葦が繁茂している。 ここでも最大は40cm級であろう。下の堰では、繁殖しているか未確認である。 護岸の蛇籠、葦、インレット(水路状)、などのストラクチャーがある。 上の堰・下の堰双方ともに、地元の小・中学生の釣り場である。 魚影は濃いのだが、なにぶん狭いのですぐ場荒れする。上と下に、3人+2人がせいぜいと見た。 鯉(60〜70cm)が放養されているので、釣らないよう注意したい。 ヘラブナはいない模様。 水神が、ひっそりとまつられている。
■釣り人へのお願い(田川の堰で、これからも釣りを楽しませて頂くために)■ ☆農繁期(特に田植・稲刈りの時期)は、大型農業機械の搬入等に支障があるため、 車での釣りは自粛して下さい。 ☆車は邪魔にならない所に駐車して下さい。 ☆ライン(釣り糸)・ワーム・空き缶・空のパッケージ等のゴミは必ず持ち帰るようにして下さい。 |
history. | 1882(明治15)年測量の |
|
2万分の1迅速図「茂原及び大多喜近傍・第22号市場町」に、この堰は記載されていない。 図上、現地(八幡祠の北側)は水田になっている。 ある農家の老婦は、嫁いできた1952(昭和27)年には、既に堰があったという。 従って堰の完成は、1883(明治16)年以降の近代である。 両堰とも、土盛りに内面コンクリート・ブロック貼り、 取水用尺八とコンクリート製越流式余水吐けを有する。 単純ながら安価に施工できる、すぐれた設計構造である。 総貯水容量は、上の堰が約3000m2(50×60m)で平均水深2mとし、6000m3。 下の堰が約1200m2(60×40m/2)で平均水深2mなら、2400m3であり、 合計で8400m3程度であろう(よしさん推定)。 |
|
この少水量を水源に水田をまかなうなら、5月の田植(早期栽培)は無理で、6月の 梅雨を利用せざるを得ない(普通栽培)し、堰の水は8月の最大用水時期に備えて 温存することになる。 しかし、空梅雨だったら、灌漑期に旱魃が続いたら、水田はどうなるのか。 ましてや、堰が築造される以前なら、どうして水田から安定した収量を得るのか。 気温低下による障害や、台風による風害を深水で軽減したり、中干しや落水、また 掛け流し、さらに水温の異なる用水の切替が自在にできる(これを掛け引きと言う)、 水量豊富な現代の水田など、夢のまた夢であったろう。 農民の苦労と苦痛は、想像するに余りある。 |
|
田川村は慶長(1596〜1614)の頃、幕府の直轄領であった。 1609(慶長14)年、代官・小川新九郎(織田信長の次男・信雄の旧家臣か)が検地して、 村の田租(年貢)を増加させたため、村民は生活に困窮した。 碑銘によれば「村民終歳力田所獲不償所納」=村民は年中、田に力(つとめ)ても、獲る 所(収穫)は、納むる所(年貢)に償わず=という悲惨さである。 これを見かね憤慨した若き村長・池田三郎左衛門は、直接幕府に訴え、また控訴。 書状でも10数度の訴えにより聞き入れられ、再検地の結果、年貢は元に減額、代官は 遠島処分された。 しかし、池田三郎左衛門の公訴は強訴で上役を蔑ろにしたとされ、幕府は土地没収の上、 死罪に決っした。 のち幕府は再審し、死刑には該当せずとして、処刑停止を知らせる使者を出したが、 それは処刑の当日、1611(慶長16)年11月15日のことで、使者の到着は、既に死刑 執行後であった。池田三郎左衛門、23歳である。 その時3歳の娘は、長じて里見氏の旧家臣・神納右衛門の妻となり、後に進藤と改姓。 池田三郎左衛門の位牌をまもる進藤家は、進藤五郎衛門・進藤雄太郎へと続いている。 村民は池田三郎左衛門の冥福を祈念し、田川に十王堂(今も簡素な堂がある)を建て 毎年祭事が続けられており、神明神社には池田三郎左衛門の碑が建つ。 「房総の秘められた話、奇々怪々な話」等で、池田三郎右衛門とあるのは、 池田三郎左衛門の誤り、進藤勇太郎は進藤雄太郎の誤りなので指摘しておく。 田川の堰の管理は、富岡土地改良区・田川区である。 流末は東流し、小櫃川(流路延長88.0Km、流域面積273.2Km2)に入り、 木更津市畔戸(くろと)で東京湾へと注ぐ。 |
|
亀山湖にも神納と呼ばれるポイントがある。 往古は小櫃川本流の蛇行部であり、その後、川廻しにより水田が開かれたが、 1973(昭和48)年、亀山湖誕生にともない、現状は湿地帯である。 ここは前記の神納氏と何らかの縁があるものと思いたいが、確証は得られていない。
松崎明治は『釣魚手帖』に小櫃川の魚類として、ウナギ・ドジョウ・コイ・フナ ・ナマズ・アユ・ウグイ(ハヤ)・オイカワ(ヤマベ)も挙げている(154PP)。 |
Reference Books. | ||
○2万分の1迅速図 | 1882(明治15)年測量 | |
参謀本部 | ||
○釣魚手帖 松崎明治 | 1949(昭和24)年01月25日 | |
丘書房 | ||
○農業水文学 金子 良 | 1957(昭和32)年12月20日 | |
土木雑誌社 | ||
○木更津市史 富来田編 | 1982(昭和57)年11月03日 | |
木更津市市史編集委員会 木更津市発行 | ||
○房総の秘められた話、奇々怪々な話 | 1983(昭和58)年07月10日第1刷 | |
大衆文学研究会千葉支部 株式会社崙書房 |