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| 0060 |
| 道の口沼(どうのくちぬま)Dounokuchi-swamp |
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| 千葉県匝瑳市(旧八日市場市)高 |
1地形図 | 八日市場2984, |
分 類 | 池 |
別 称 | 道口池、 |
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JR総武本線八日市場駅より、南へ約2km。 国道126号を下り、八日市場警察署前の"下出羽"信号の次ぎの 信号を右折。JR総武本線を越えて、県道八日市場・野栄線を 南下し、約1.3kmの横須賀新田の信号を右折西進し、400m。 |
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| 5,000m2 |
| 1.5m |
| 7,500m3 |
| ・・ |
| 不詳。 |
生息確認年月 | 1995(平成07)年12月03日未確認。 |
| 貸しボート・トイレ・売店・駐車場なし。 |
Special Feature | 周囲300m、幅50m、長さ100m程の長方形の池。 |
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辺地は、盛土にコンクリート矢板。 足場は良い。水色は赤褐色。ボトムは、砂。 八日市場市連合釣友会(鎌形釣具店、電話0479-72-1478)が 遊漁の管理をしている。 この池での釣りには、同釣友会発行の管理協力券を携帯。 超小場所なので、リール釣りや舟は禁止されている。 1975(昭和50)年、日本野鳥の会千葉支部斎藤敏一氏の調査によると、 道の口沼には、泥鰌・縞泥鰌・鰻・鯉・ヘラブナ・タナゴ・ 源五郎鮒・真鮒が生息していた。 現在は、寂れたヘラブナの釣り堀という様相。カイツブリもいる。 しかし、わざわざ遠征して来る釣り場ではない。 |
History | 椿の海が入り江であった時代を過ぎ、太平洋側に砂州が延び |
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汽水化し、更に海岸線が後退した頃(縄文時代後期か)、 椿の海から流出する水が、海流に押され出口を失って、 形作られた湖沼群の一つと推定される。 海老川沼(別項参照)等の成因も同様であろう。 1883(明治16)年の、大日本帝国参謀本部陸軍部測量局の迅速測量図 「八日市場村」に、道の口沼から乾草沼(別項参照)へと連なる、 幅400m・長さ約4400m・中の島4ケの、大池沼が見える。 これと平行して、現在の国道の南に、川口沼(別項参照)迄続く 長さ約8000mの湿地・湖沼群もあって、その成因を立証している。 |
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柳田国男の『地名の研究』に、「新潟および横須賀」という一項がある。 長くなるが、引用して見よう。 「千葉県の九十九里浜でいうと、北は飯岡の鼻から、 南は大東の崎まで、長くあの曲線に似よった風ばかり吹いていた のである。要するに河口の一方に曲るということ、または多くの 天橋立(あまのはしだて)のできる原因は、その地または近県に 砂を持ち出す荒川のあることと、風位を統一するような地勢を 備えた島、または海岸の山のあることである。 主風の特質は動力としては第三に位するかと思う。 相模江ノ島なども今に橋が不要になるかもしれぬ。 長門の萩の笠島などもその例である。(中略) 東方の海岸に潟の少ない理由を考えてみるに、第一には潟の下地を なすべき入江が少ない。 上総の海岸のように砂嘴の十分に発達した地方でも、 潟を構成する前に水が排出せられてしまう。 上総の海岸についていうと、成東から大多喜までの丘陵地の外に、 これとほぼ併行して、いくすじかの低い砂丘と湿地とが波をなして いるのは、右の経過を記述するもので、いったん砂が押し寄せて 河口が屈曲すると、その次の大水はこれを突きやぶって直通し、 旧河道を廃物とし、かついくぶんかその水を排出し、さらに その外に出てまた屈曲しはじめるのである。 新潟の発生するような状況下では、いつまでも上総で見るがごとき 横須賀は起こらぬ。 須戸または須賀と呼ばれる地形は、東の海岸の特色である。」 |
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1919(大正08)年発行の、『稿本千葉懸史』の「道口池」の項に、 「椿海村大字椿の西南字道口にあり、東西二百間・南北七十八間・ 面積一萬五千七百五十坪にして、水田三十町歩の灌漑に供す。」と見え、 更に1921(大正10)年発行の、『千葉県匝瑳郡誌』に「椿の西南字道口 にある道口池は面積15,700坪あり」と見える。 1941(昭和16)年の森田春雄『関東百万人の鮒釣場案内』「八日市場付近」 (186pp)に、道の口沼を含む大小12の池沼が描かれている。 付近一帯の沼の水面は鬼蓮等が生い茂り湿地帯の様相だから、探り釣り でなく並べ釣りで、浮木下三五寸から五七寸の、珍ちくりんな浮木下の 宙釣りを、森田は勧めている。 他の池沼と同様に、米の増産という時代の要請・農業政策により、 順次水田化・農業用宅地化され、今は僅かな水面が残るだけ。 明治時代以前から自生していたとされる、オニバス(スイレン科の 1年草)の群落は、特に須賀地区に多く見られたが、戦後急激に 増えたアメリカザリガニに新芽を食いちぎられ消滅しかかり、 さらに、土地改良事業で沼沢地が耕地化し、1955(昭和30)年頃 絶滅したようだ。 |
【参考文献(架蔵書)】 (※01)編纂:千葉懸(1984):『稿本千葉懸史 巻上』完全復刻版,千秋社, 底本は1919(大正08)年05月05日 発行:能勢鼎三 (※02)千葉県匝瑳郡教育会(1976):『千葉県匝瑳郡誌』復刻版,崙書房, 底本は1921(大正10)年10月05日 (※03)森田春雄(1941):『関東百万人の鮒釣場案内』,三弘社, (※04)柳田国男(1973):『地名の研究』(角川文庫) ,角川書店, (※05)八日市場市史編纂委員会(1976):『八日市場の歴史と民俗』(第1号),同事務局, (※06)よしさん(2011):「千葉県道の口沼の魚類餌料プランクトン」http://wakasagi.jpn.org/ |