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| 0041 |
| 岩熊の堰(いわくまのせき) |
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| 千葉県いすみ市(旧夷隅郡岬町)岩熊 |
1地形図 | 上総一宮5197, |
分 類 | 溜池(潅漑用) |
別 称 | 乙鳥谷堰、 |
| JR外房線太東駅より、西へ約5km。 国道128号線を下り、"七井土"信号(Y字路)を右。 直進して県道茂原・夷隅線で睦沢町を南下。 "岩井"信号を直進、分水嶺(町境)を越え300m。 |
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| 6m |
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| 不 詳 |
生息確認年月 | 1995(平成07)年08月22日 1998(平成10)年07月18日 |
| 貸しボート・トイレ・売店なし。堰堤脇に数台なら駐車可。 |
| 県道茂原・夷隅線の脇にある、堰。 |
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全体は幅100m長さ300mの、南北一文字型だが、 上流側の小さな池と、下流の池に二分される。 上流の池は、浅く、ベジテーションが豊富。 堰堤は、盛土の均一式で黒色遮水シート張りである。 下流の池は、恐怖のすり鉢状であり、落水すればすがるものが無い。 一度でも、減水期の水面を見た釣り人なら、恐くて安易な場所には 立てないだろう。 |
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房総に多い粘板岩はもろく、降雨時は特に滑り易いものだ。 陸っ張りでも、ライフジャケットを着用する程の慎重さが欲しい。 1991(平成03)年06月16日16:45に、3人の溺れかかった少年を 救った婦人(細川静氏)が、自ら力つきて亡くなる事故があった。 池畔に大原ロータリークラブによる顕彰碑 「崇高の魂(たま)瞑(ねむ)る湖(うみ) 月さやか/蛙村」がある。 水色はややマッディー、下流の池の水面は、オープン。 岩熊の堰は、立地的にやや有名で、BASSは、スレている。 堰の魚は、平衡期にあり、個体数は多くない。 |
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岩熊の法興寺(ほっこうじ)は、飛鳥時代の702(大宝02)年創建。 |
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江戸時代の岩熊村領主は遠山家で、遠山家5代景晋(かげみち)は 金四郎と称し、長崎奉行所第84代奉行を勤めた。 1997(平成09)年、長崎奉行所の庭園の池の跡から、 景晋の名が彫られた石塔が発掘されている。 以後9代迄の5人が金四郎を名乗る。 景晋の息子6代景元(かげもと)が2代目遠山金四郎で、 「遠山の金さん」こと北町奉行の遠山金四郎である。 末代の景福(かげとみ)は、岩熊の農民から年貢米を取らず、 耕作農民に分配した。 農民は「お殿様」の温情に感謝し、明治時代初期に遠山講を創って、 遠山家先祖代々の供養・礼拝と歓談をしたと云い、今でも 12月22日に、関係農家が集っている。 |
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♪しずかな しずかな さとのあき で始まる、童謡「里の秋」の メロディーは、ここ岩熊の風景の中から生まれた。 1944(昭和19)年、家族と共に岩熊の法興寺に疎開した、作曲者 海沼実(かいぬまみのる)氏が、1945(昭和20)年暮れ、作詞家の 斎藤信夫氏(千葉県山武郡成東町在住)を招き、斎藤氏の作詩した 「星月夜」を「里の秋」と改題し、詩の一部を書き直してもらい、 作曲にかかり完成させた。 岬町は、「童謡の里」づくりを目指し、1992(平成04)年には、 法興寺の入口に「里の秋」と「蛙の笛」の歌詞と音符を刻んだ碑を 完成させた。 1992(平成04)年から毎年、音羽ゆりかご会(海沼美智子代表)を 招いてコンサートを開催している。
1949(昭和24)年再刊の『釣魚手帖』では夷隅川の魚類に、ボラ・ ウナギ・ドジョウ・コイ・フナ・ハゼ・エビ・クロダイ・アユ・ウグイ (ハヤ)・オイカワ(ヤマベ)を挙げている(154pp)。 流末は桑田川を経て、夷隅川(流路延長67.5km,流域面積299.4ku, /別項参照)に入る。 岬町に、堰谷堰(谷上/やがみ)・三戸川堰(谷上)・大堰(別項参照)・ 亀ケ城(別項参照)等がある。 |
○釣魚手帖 松崎明治 | 1949(昭和24)年01月25日 | |
丘書房 | ||
○千葉県統計年鑑(昭和42年) | 1968(昭和43)年03月25日 | |
千葉県企画部統計課 | ||
○岬町文化史年表 清水豊 | 1973(昭和48)年03月08日改訂2版 | |
岬町文化財審議委員会 | ||
○太東岬物語 小島良一 | 1992(平成04)年11月10日第2刷 | |
竹書房 |