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| 0036 |
| 長楽寺の堰(ちょうらくじのせき) |
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| 千葉県長生郡睦沢町佐貫、長楽寺、 |
1地形図 | 上総一宮5173,5174, |
分 類 | 溜池(潅漑用) |
別 称 | 長楽寺堰 |
| JR外房線上総一宮駅より、西へ約6km。 国道 409号線"高師"信号を南下。茂原市役所脇を通り、道なり直進で、県道茂原・大多喜線に入る。 長南町の "給田"信号を直進。1km先 (左ト/信号なし)の"地引中"バス停を左折。南茂原カントリークラブの先 (T字路ぶつかり)を左。約1.5km。 |
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| 3m |
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| 慶長年間(1596−1614) |
生息確認年月 | 1995(平成07)年08月23日未確認 1998(平成10)年07月18日未確認 |
| 貸しボート・トイレ・売店・駐車場なし。 |
| 小河川・長楽寺川(宮川)に設けられた、堰である。 |
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堰の北と南には、それぞれ東西に延びる尾根を持つ。 堰の周囲は当然ながら水田であり、山裾には農家が点在する。 砂岩の河床が、落差により下流から侵食され、後退して来た落下口を 巧みに利用した堰だ。 先人の知恵に感心させられる。 堰の周囲に小道はあるが、田の畦でもあり車両は遠慮したい。 堰水面は、変形のH型。 |
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水色は、マッディー。 水面はオープン。 アメリカザリガニ・オタマジャクシ・カイツブリの生息を確認。 鮒もいると見た。 緋鯉は、放流されたもので鑑賞専用である。 メインインレットの三島橋 (1982年03月竣工)下流側は、両岸共に水制の蛇籠が施工されている。 |
| 睦沢村佐貫地区から、旧象マンモスの骨格が出土した。 |
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近傍で鎌を研いでいた老婦人に聞くと、溜池は遠く慶長年間 (1596 −1614)から、先祖代々が護ってきたとの由。天保年間 (1830−1843)の写本・上総国郡村高帳【1847(弘化04) 年の南総郡郷考と大同小異と云う】によれば、 長楽寺村の戸数 43戸・石高185石・領主/地頭は阿部左近(92.6石)・小谷川 (小長谷)伝右衞門(92.6石)とある。江戸幕府最終期には、石高 185.2石・領主/地頭は阿部四郎五郎(92.6 石)・小谷川(小長谷)潤之助(92.6石)となる。長楽寺村は初め、今泉村と称し夷隅郡大多喜領に属した。 長楽寺と云う古刹があったが、天正年間 (1573−1591)廰南城主武田豊信と万木城主土岐頼春が戦い、その戦場となったので、 大多喜へ移転した。 |
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無量寺は長楽寺境内の一角に建てられた小堂で、今なお本尊 薬師如来等遺留の仏像を保存している。 1763( 宝暦13)年頃、無量寺山上の老松が大風で倒れた時、地元の宮崎某は、その根本より古甕を発見し、これを山麓の池にて 洗えば、甕の水は赤色を呈す。 調べれば朱であった。 1909( 明治42)年02月、芝原の濟美尋常小学校に寄贈された。 |
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最近は、 1980(昭和 55)年03月に茂原土地改良区により、堰堤ならぬ鋼鉄製のゲートが施工された。 このゲートは堰堤であると共に、越流式の余水吐けでもある。 更に、ゲートを可動上昇させれば水は一気に堰から流れ下る。 護岸は盛土で、内面はコンクリートタイル張り。 1987( 昭和62)年から毎年、09月23日に水抜きを実施している。冬場の護岸工事を再開するためで、 1995(平成07)年で完成。以降は慣例に習い、7年毎の水抜きとなろう。 流末は宮川から、埴生川 (流路延長19.0km,流域面積49.8ku)を経て、一宮川 (流路延長37.3km,流域面積220.8ku)に注ぐ。睦沢町の、女ケ堰 (別項参照)は、南へ尾根を越えて1000mである。睦沢町立歴史民俗資料館 ( 電話0475−44−0211/月曜・祝日の翌日・年末年始休館 )へは、東1.8kmだ。見て体験して学ぶ資料館で、町域に拘らず総合的な博物館を感じさせる。 |
○千葉県統計年鑑(昭和42年) | 1968(昭和43)年03月25日 | |
千葉県企画部統計課 | ||
○長南町史 同編纂委員会 | 1973(昭和48)年03月30日 | |
長南町 | ||
○長生郡郷土誌 | 【1913(大正02)年05月21日長生郡教育会】 1976(昭和51)年06月20日影印版 | |
崙書房 |