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| 0029 |
| 福岡堰(ふくおかせき) |
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| 茨城県筑波郡谷和原(やわら)村、水海道市、つくば市、 |
1地形図 | 旭3021,3022, |
分 類 | 堰(河川) |
別 称 | 福岡大堰 |
| 関東鉄道常総線水海道駅より、東へ約4km。 常磐自動車道 "谷和原 IC"を出て、国道294号線を北上する。水海道市に入り、水海道市役所の信号を右折東進。 関東鉄道常総線を越えて、直進。 小貝川を大和橋で渡り、左岸を2km遡上すると、 仁左衛門余水吐け。 更に500m東進し、信号を左折北上。1.2kmで福岡堰。 |
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| 3m(堰)、6m(余水吐け) |
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| 1722(享保07)年 |
生息確認年月 | 1995(平成07)年09月17日確認 |
| 貸しボ−ト・トイレ・売店・駐車場なし。 |
| 小貝川をせき止め、潅漑用水を得るための堰で、その幅500mである。 |
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毎年3月末 (潅漑期の始め)には水門(2門)を閉め貯水を開始するため、堰の上流側に長大な水面が、出現する。 上流側の護岸は、捨石の上に金属ネットを張り、土盛りしたもの。 水流で洗われた護岸の一部は、水底に金属ネットが露出し、 ルア−のトリプルフックは、地球を釣り易いので要注意。 4月中旬には、用水路に放水を開始。 非潅漑期には、福岡堰のゲ−トは開いており、上流・下流共に 河川そのものとなる。 |
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伊奈神社から、堰の下流 (左岸/谷和原村)には、仁左衛門余水吐け迄続く桜並木があり、花見時は賑わう。 流水のため、釣りには仁左衛門余水吐け前のワンド等、 流速の遅い場所が適する。 水色は、マッディ−。 鯉・ヘラブナ・真鮒・ウナギ等も生息する。 |
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1615−1623(元和)年間、 |
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伊奈郡代忠治(通称半十郎/本姓源伊奈忠次の子)は、 鬼怒川(絹川)・小貝川 (蚕養川/流路延長111.8km)が 合流し、湖沼となっていたのを分離し、直接利根川 (流路延長322km,流域面積 16,840ku/別項参照)に流すことにより、開拓に着手。1625( 寛永02)年〜1627(寛永04)年、山田沼に萱洗堰を創設。1722( 享保07)年、山田沼の萱洗堰を廃止して、現在地に堰止めたのが福岡堰の始めである。 |
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小貝川を水源として、台通用水路・川通用水路・中通排水路、 その他の分水路を開削し、開発されたのが通称谷原3万石の耕地で、 堰及び用水・排水路共、創設以来 1886(明治19)年・1921(大正10)年等数度にわたり改修されて来た。 戦後、土地改良法制定に伴い 1951(昭和26)年、普通水利組合から土地改良区に組織変更された。 |
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伊丹排水機場の創設、中通排水路の一級河川への編入を経て、 1963( 昭和38)年、台通用水路・川通用水路を、県営農業水利事業として改修に着工、 1974(昭和49)年竣工した。現在の可動式コンクリ -ト堰は、1971(昭和46)年完成した。併せて 1965(昭和40)年より、16年の歳月をかけ1981(昭和56)年総面積 3,443haの圃場整備が完了を見た。しかし、 1955−1964(昭和30)年代からは地下水利用増大により地盤沈下が発生し、用水路にも不等沈下・亀裂漏水等の影響が出、 1976( 昭和51)年から2年間の調査を実施し、1978(昭和53)年より県営溜池等整備事業として改修を行い、 1989(平成01)年03月に至り、完成したもの。 その事業内容は、台通用水路 2,824m・川通5ケ村用水路3,065m・総事業費用 1,035,500,000円となっている。堰の管理は、福岡堰土地改良区である。 なお、福岡堰は 1950(昭和25)年03月、茨城百景の一つに選定された。小貝川下流に、岡堰 (茨城県北相馬郡藤代町)・豊田堰(茨城県龍ヶ崎市 )があり、福岡堰と共に関東三大堰と呼ばれている。 |
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鬼怒川のほとりで生まれた長塚 節は、「利根川の一夜」で、明治37年の利根川の鮭漁を描いている。 [ 叔父の案内で利根川の鮭捕を見に行くことになつた。晩飯が済んで勝手元もひつそりとした頃もうよからうといふので四人で出掛けた。 ( 中略)大分時間も経過したらうと思はれる頃に有るか無いかのやうに鈴の鳴るのが聞えた。叔父の手は強く自分の体に触れた。 しかしその時はもう自分が咄嗟に起き上る刹那であつた。 従弟をも抱くやうにして起した。再び鈴がからからんと鳴つた。 こんだ大丈夫でさ、見てさツせ、いま大 (で)かいのがとれるからと、両方に立ち別れた舟は底なる網を揚げた。 水面に現はれると共に獲物はもう進退の自由を失つたと見えて、 自分等の近くのところで網へくるまつて仕舞つた。 割合におとなしいものである。 サツパをそこへ漕ぎ寄せると、なかの男が獲物の鰓のところへ 手をさし込んでぐつと小べりへ引きつけて、ぎくりぎくりと動いて 居るのを、一尺五六寸の丸棒で二つ三つ鼻面を悩ました。 あざやかなる獲物は銀の色をして光つて居る。三尺ばかりの長さだ。 ( 中略)各々顔を洗つたり土瓶をすゝいたりしてやがて凉炉には火が起る、湯が煮立つ。 爺さんはすゝぎもしない土瓶へ茶を入れた。 傍から爺さまそれは酒の土瓶だぞ、酒がまだ残つてたんべえといへば 「うん道理でをかしかつた。」それでも構ふことはねえと澄まして 湯をさしては飲んで居る。 薪のなかゝら一束の葱を引き出してザブザブと洗つて鍋蓋を倒にした 上でブツブツ刻んだ。汁がかけられた。 こんなことで舟のなかでは朝餉の支度をして居ると 三度目の鈴がからからんと鳴つた。 ]
空腹の時に読むと、涎が出そうな描写だ。 続きは、ぜひ、原文をあたって下さい。 |
○日本の風土記 水郷・房総(荻原井泉水編) | 1968(昭和34)年04月20日第1刷 | |
宝文館 | ||
○千葉県統計年鑑(昭和42年) | 1968(昭和43)年03月25日 | |
千葉県企画部統計課 | ||
○利根川図志 津森信博 | 1980(昭和55)年08月20日第1刷 | |
原本現代訳 教育社 | ||
○ふるさといばらきの川 同編集委員会 | 1958(昭和63)年11月16日 | |
茨城新聞社 |