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| 0002 |
| 神之池(ごうのいけ) |
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| 寒田沼・寒田池(さむたいけ)・軽野池(かるのいけ)・苅野池(かりのいけ)・降野池(こうのいけ)・業ノ池・神ノ池・神の池 |
| 茨城県神栖市(旧鹿島郡神栖町)溝口、奥野谷 |
| 池(農業用調整池) |
| JR成田線小見川駅より、北東へ約7km。 |
東関東自動車道路潮来ICを出て、水郷道路(有料)を神栖町方面に東進 | |
道なり直進で、国道124号線に入り、アトンパレスホテル(進行の右側)前 | |
を通過して、神栖市役所(進行の左側)が目標。 | |
文化センター前の信号左折。 | |
| 450,000u |
| 3m |
| 統計なし(流入河川なし) |
| 原型は縄文時代、現況は1973(昭和48)年 |
生息確認年月 | 1995(平成07)年05月22日 |
| 貸しボートはあるが、何と白鳥号(ペダル漕ぎ・屋根付き)。 |
| 霞ケ浦・北浦等に隠れているが、神之池はオカッパリ天国だ。 |
幅200m・長辺2000m・短辺1500mの台形を、逆さにした形の池。 | |
神栖市役所・郵便局・文化センターの裏手一帯である。 | |
水色はマッディー。神の池公園として全周に遊歩道が整備され、足場は良い。 | |
池畔はどこからでも、スニーカーでアプローチ可能だ。 | |
水門・コンクリート杭・水生植物・水中石積等の、ストラクチャーも豊富。 | |
BASSの主力は、35cm級。ヘラブナ・鯉・鮒も生息。 | |
グラブを流行のツネキチ・リグにして、スピニングの練習に、最適のフィールドといえる。 | |
トイレと駐車は、文化センター・体育館へ。北側にも神之池緑地駐車場がある。 | |
神之池の水神を祀る水神社は、武道館横にある。 |
| 神之池の沿岸には、縄文時代の貝塚が発見され、形成年代が古いことを示している。 |
成因は、地質時代の小沈降・入江が淡水化したと言われる。 | |
元明天皇が713(和銅6)年に発した命により、和銅頃成立したと推定される常陸國風土記に、 | |
神之池が記載報告されている。 | |
武田祐吉『風土記』に、「郡の南二十里にして濱の里あり。東の松山の中に | |
一つの大きなる沼あり。寒田といふ。四五里ばかり。鯉、鮒、住めり。沼の水、 | |
輕野の田に流れ漑ぐこと二里許、あらゆる田少しく潤へり。」(68-69pp)とあり、 | |
常陽藝文センター『常陸國風土記』に、「郡の南廿里に濱の里あり。その東の松山の中に、 | |
一つの大きなる沼あり。寒田と謂ふ。四五里ばかりなり。鯉・鮒住めり。之万・輕野 | |
の二里に有らゆる田、少しく潤へり。」(175pp)と、関 南沖元茨城大学教授の読み下し文が見える。 | |
編著者により、解釈に若干相違があるものの、約1300年前の神之池の姿がわかる。 | |
以来、溝口・木崎・田畑・芝崎・萩原等の旧軽野村の潅漑用水源として利用されてきた。 | |
もとは最大水深10.1m、周囲8kmの円形の湖である。 | |
1710(宝永7)年04月26日の神之池用水論争に対する幕府評定所の裁許状によれば、神之池は | |
用水源のみならず、魚類(鯉・鮒・鰻・蝦)や鳥類(雁・鴨)の捕獲・蓴菜(じゅんさい)の採取・ | |
肥料用藻草の採取・葦や蒲の採取などという自然の恵みをもたらしていた。 | |
1899(明治32)年から1901(明治34)年の耕地整理で国有地に編入。 | |
1965(昭和40)年06月鹿島臨海工業地帯の鹿島港と工業用地にするため、神栖町議会が埋立同意承認。 | |
同年、厚生省が神之池を水郷筑波国定公園から除外。 | |
1967(昭和42)年04月神之池公有水面埋立事業認可。 | |
こうした変遷の末、総面積3,260,000uのうち、わずか450,000uが農業用調整池として今に残っている。 | |
広大な神之池は鹿島港南航路となり、埋立られた場所には信越化学・鹿島塩ビモノマー・鹿島電解・ | |
鹿島石油・三菱油化・鹿島アンモニア・油化メラミン・武田薬品工業・花王・三菱マテリアル・ | |
大日本インキ・旭硝子・鐘淵化学・住友大径鋼管等の企業が立地した。 | |
神栖市に、常陸利根川(流路延長25.5km,流域面積・・)・外浪逆浦・鰐川・鹿島緑ケ池(横瀬)があり、 | |
付近には、利根川(流路延長322km,流域面積16,840ku)・北浦・与田浦・霞ケ浦等がある。 |
history. | 1897(明治30)年11月、弱冠23才の青年細谷益見により |
著された、「茨城県町村沿革誌」はユニークである。 | |
同誌記載の、中島村の人情風俗は、「本町舊各村ハ舊徳川旗下ノ采邑ニシ | |
テ同一制度ノ下ニアリ村民ハ農亦漁業ヲ営ミ概子朴訥ナリ」。 | |
さらに軽野村の人情風俗については、「本村人民ハ古来質朴ノ風アリ居民 | |
ハ農業ヲ専ラトシ傍ラ漁業ヲ営ム」 とある。 | |
中島村と軽野村は合併し、神栖町となった。 | |
隣の波崎町については、若松村「本村人民ハ概子質朴勤倹ニシテ | |
等シク舊幕府ノ采邑ニ属シタルヲ以テ人情風俗自ラ相同シク居民ハ | |
半農半漁以テ生計ヲ立ツ」。 | |
矢田部村「居民概子質朴ニシテ稍々太古ノ風アリ」。 | |
東下村「村内分レテ三部落アリ曰ク波崎組曰ク高野組曰ク舎利組是ナリ | |
(中略) 居民概子淳朴ニシテ往々蒙昧ノ風ヲ脱セス」 。 | |
交通・通信等のインフラ整備事情が現代とは比較にならぬ時代に、 | |
よくもこれだけまとめたものだと感心する。 | |
そしてまた、少部数限定出版と推定される本書を、80年後に掘り起こし | |
注目した人の見識、良書を復刻した出版社の姿勢も立派だ。 | |
良い仕事は、100年を経ても輝いている。 | |
鹿島臨海工業地帯となる以前、昭和初期の「神の池」のフナ釣りについては | |
西澤邦次が『釣魚随筆』に書き留めている(203pp)。 | |
与田浦・浪逆浦・北浦界隈のフナ・コイ・ナマズ・エビ・ワカサギ・ボラ・ハゼ・ | |
スズキ釣り、笹川・波崎・銚子の様子等は、昭和04年に家族と潮来に移り住んだ | |
太田黒克彦の『水辺随筆』(『水辺手帳』1936の、書名変更・増補改訂版)に、 | |
世相や暮らしぶりと共に詳しく描かれている。 | |
関西からのヘラブナの移殖史は、渡辺利之助『へら鮒釣』に詳しく、一部を引用 | |
紹介して見よう。 | |
「ヘラ鮒の起りを文献に依って調べて見ると、福島県信夫郡笹谷村と言うところに | |
滋賀県から移したと言うのが一番古い記録で、次に昭和2年に同じく福島県安積郡 | |
ゼンポウ寺の池にゲンゴロウ鮒を入れたと言うのが古く、霞ケ浦方面は昭和5年に | |
琵琶湖から親ブナを持って来て神の池、牛久沼、菅生沼(何れも茨城県)に放ち、 | |
その一部分を茨城県の水産試験場で飼っておいて翌年卵で霞ケ浦に放したと言うの | |
が一番古い記録だと言われます(以下略)」 | |
その後、昭和7年より北浦・涸沼に放流された・・。 | |
ヘラブナ釣りファンなら、押さえておきたい小史である。 |
【注】2011年03月11日発生の「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」により、
神之池へ大津波が流入し、神之池の塩分濃度は 2400mg/l(as Nacl)に上昇しました。神栖市は常陸利根川より用水を緊急注水し、
04月21日現在の塩分濃度は 420mg/l(as Nacl)に希釈低下が確認され、灌漑用水に使用開始されました 2009年04月〜06月には、水生植物不足による産卵ストレスが原因と推定される、ヘラブナの大量斃死(約8000尾)があり、 大津波の流入と併せ、神之池の淡水生態系は大きなダメージを受けています 東日本大震災により被害を受けられた方々に心よりお見舞いを申し上げます。よしさん |
(よしさん架蔵書) | Reference Books. | |
○茨城県町村沿革誌 細谷益見 | 1976(昭和51)年10月10日(影印版) | |
崙書房 | ||
〇釣魚随筆 西澤邦次 | 1936(昭和11)年10月05日 | |
新小説社 | ||
〇風土記 武田祐吉 | 1940(昭和15)年11月30日第5刷 | |
岩波文庫 岩波書店 | ||
〇水辺随筆 太田黒克彦 | 1942(昭和17)年06月25日 | |
日本電報通信社出版部 | ||
〇へら鮒釣 米地南嶺・渡辺利之助 | 1956(昭和31)年10月15日再版 | |
つり人社 | ||
○開発と地域の変貌 鹿島臨海工業地帯 高校地理教育談話会 | 1975(昭和50)年06月19日 | |
大明堂 | ||
○写真集 波崎町の歴史 波崎町史編さん専門委員 | 1980(昭和55)年03月31日 | |
波崎町 | ||
○波崎町史料T 波崎町史編さん専門委員会 | 1981(昭和56)年03月31日 | |
波崎町 | ||
○波崎町史料U 波崎町史編さん専門委員会 | 1982(昭和57)年03月31日 | |
波崎町 | ||
○神栖の歴史 普及版 神栖町史編纂委員会 | 1984(昭和59)年07月01日 | |
神栖町 | ||
○神栖町史 上巻 神栖町史編さん委員会 | 1988(昭和63)年03月31日 | |
神栖町 | ||
○神栖町史 下巻 神栖町史編さん委員会 | 1989(平成元)年03月31日 | |
神栖町 | ||
○波崎町史 波崎町史刊行専門委員 | 1991(平成03)年03月30日 | |
波崎町 | ||
〇常陸國風土記 常陽藝文編集部 | 1992(平成04)年08月01日 | |
常陽藝文センター |